田中 正治 2023
本書紹介
本書は「ジョン・F・ケネディ大統領暗殺記録収集法」に基づき、近年米国で公開された文書に依拠している。暗殺に関する事実と背後関係のみならず、何よりも暗殺に至る政治的背景、特にCIA,米軍統合参謀本部とケネディとの暗闘を描きだしている。
著者紹介
ジェームズ・W.ダグラスは1936年生まれ。米国の平和運動家でカトリック神学者。学生の反戦活動に参加しハワイ大学進学教授の職を辞し、1977年「非暴力行動のためのグランドゼロセンター」を設立。トライデント核ミサイルに対する抗議活動を展開。1989年困窮者のための福祉施設「メアリーハウス」を設立。2003年イラク戦争の時イラクの人たちの目を通して考えるためイラク、パレスティナなどを訪問。
著書は「非暴力の十字架―革命と平和の神学」等多数。
2023年7月3日IWJが岩上氏と高野孟氏との対談で、ロバ-ト・ケネディー・JRが民主党大統領候補に立候補していると報じた。その主張はアっというものだった。
彼の主張が実現されれば世界は一変するかもしれない、と思うと同時に、米軍統合参謀本部やCIAなどが黙っているとは思えない。ロバート・ケネディ・JRが大統領になる可能性が出てくれば、暗殺の可能性もまた無限に増大するに違いない。そんな思いを巡らせていた時、5年ほど前に友人から送られてきた1冊の本を思い出した。『ジョン・F・ケネディはなぜ死んだのかー語りえないものとの闘い』。700ページほどの分厚い本なので手つかずに眠らせていた。パラパラとみるとケネディ大統領がペンタゴンやCIAと死闘を演じている様子や暗殺の真相が書かれているように思われた。
(追記:2023年10月9日、ロバート・ケネディ・JRは、共和党と民主党をバッサリ切り、無所属で大統領選に立候補を宣言した。)
https://robertfkennedyjr.substack.com/p/kennedy-independent-presidential-candidate
本書の章立ては次のようになっている。
第一章 冷戦戦士の転向
第二章 ケネディ、カストロ、CIA
第三章 JFKとベトナム
第四章 暗殺の標的に
第五章 サイゴンとシカゴワシントンとダラス
A)キューバピックス湾侵攻
1961年1月19日ケネディが大統領に就任した。彼が最初に直面した事件はキューバ侵攻だった。
1959年カストロ率いるキューバ反乱軍が米国の傀儡バチスタ政権を打倒、革命政権を樹立していた。ケネディ大統領(以下JFK)の前任者アイゼンハワー大統領によって、既に秘密のプロジェクト「トリニダッド計画」が準備されていた。CIAは500人のキュ―バ亡命者部隊を訓練。米陸空軍によってキューバを攻撃する計画だった。
JFKは「トリニダッド計画」を拒否。米軍が介入しない亡命者部隊だけの夜間上陸を支持。たとえ亡命者部隊が敗北しても米軍は絶対に介入しないと強調した。
1961年4月、キューバ亡命部隊によるB26爆撃機8機がキューバ空軍基地を爆撃、亡命者部隊は上陸したが、キューバ革命軍に包囲され数日後降伏した。JFKはピックス湾での敗北を認めた。それは米統合参謀本部とCIAを著しく失望させた。
後になってJFKはCIAが罠にはめようとしたことに気づいた。
ピックス湾侵攻を計画したCIAの思惑は、キューバ亡命軍が上陸地点を確保。反革命政権樹立を宣言。米国と米州機構の支援を要請することによって、米軍の直接介入を断固禁止していたJFKが、世論に負けることによって、亡命軍を米海兵隊が支援し、上陸地点を拡大しようとするものであった。ロバート・ケネディ司法長官はこのCIAの陰謀計画を知り「実質的に国家反逆行為だ」といった。
統合参謀本部はピックス湾侵攻を承認しただけで、それを計画実行したのはCIAだった。JFKを欺いた主要な面々はCIA、とりわけ長官のアレン・ダレスだった。
JFKはCIAと対決状態に入る。国家安全保障行動指令55号、57号でCIAの権限を縮小し、CIAから軍事作戦の権限を奪い取り、軍統合参謀本部に移行。更にCIAダレス長官はじめトップ3名を辞任に追い込んだ。以降JFKはCIAの恨みを買うことになる。
B)キューバミサイル危機
キューバ亡命者部隊による武力侵攻が失敗した後も、米軍統合参謀本部とCIAはキューバへの先制攻撃のチャンスを狙い続けていた。後に回想録でフルシチョフは述べている。「肝心なのは我々のミサイルをキューバに配置することによって、米国にカストロ政権に対する急激な軍事行動をとらせないようにすることだ」とし、米国に気づかれないように、核弾頭を搭載したミサイルを配置しようとした。
米軍のU2機が上空から、核弾頭を搭載したソ連の船舶がキューバ島に接近するのを察知。米軍は阻止線を張った。キューバにおけるソ連のミサイル基地建設が急ピッチで進む中、米国政府内は核先制攻撃の誘惑に駆り立てられる。統合参謀本部、CIA,国家安全保障会議、更にJFKの補佐官に至るまで。JFKは孤立無援になる。核戦争が迫ってくる。大統領は恐怖にとらわれた。ソ連のミサイル、キューバ防衛施設、通信システムに対する大量攻撃をするようルメイ将軍は、大統領に迫った。JFKはその要求を冷静に退ける。
危機の頂点で、奇跡はソ連フルシチョフ首相側からもたらされた。フルシチョフはソ連船舶に対して、米国の検疫に対して抵抗せず海上で完全に停止するよう命令した。その瞬間、核戦争の危機は回避された。
その二日前JFKはフルシチョフからの親書を受け取っていた。フルシチョフはミサイル撤去の見返りに、米国がキューバ不侵攻を確約すること,およびトルコにある米国のミサイルの撤去を要求していた。JFKは同意する。ソ連はミサイルを撤去し始める。統合参謀本部に大きな失望が広がった。
C)冷戦終結の提案
フルシチョフとの秘密交渉によってミサイル危機、核戦争の危機を回避したJFKは、1963年6月10日アメリカン大学で冷戦終結の提案を行う。これを冷戦の戦士JFKの「転向」と著者はとらえる。JFKのこの提案はフルシチョフに届いた。が同時に軍部、CIA、顧問団との亀裂をさらに深めることになる。JFKが「敵」側に寝返ったように映った。
冷戦のイデオロギーから「転向」する決定をしたJFKに、味方は皆無だった。弟のロバート・ケネディ司法長官を除けば。JFKが軍事力によって世界を支配するパックスアメリカーナを拒否したことは、それに全面的に依存している軍産複合体との全面的抗争を意味した。
JFKが大統領に就任する3日前に行われた大統領退任式で、アイゼンハワーは演説した。「この巨大な軍部と軍需産業の結びつきはアメリカにとって新たな経験です。その経済的、政治的、精神的な総合的影響力は、すべての町、すべての州議会、連邦政治のあらゆる部署に及んでいます。」「意図的であろうとなかろうと、軍産複合体が政治審議の場において、不当な影響力を獲得しないように警戒しなくてはなりません」(p99)アイゼンハワーは自らが作り出した怪物を制御できなくなっていた。アイゼンハワーはここで、軍産複合体との経済的、政治的、更には精神的抗争が社会の隅々で不可避であることを暗示している。
アメリカン大学でのJFKの演説の後、フルシチョフとJFKは「先を争うかのように平和を目指した行動を始める」。「包括的核実験禁止条約」「部分的核実験禁止条約」の締結。これに対して軍統合参謀本部は「いかなる条件でも包括的核実験禁止に反対する」と宣言。だがJFKは1963年7月大気圏だけでなく、外宇宙、あるいは領海や公海を含む海底での核実験を禁止する部分的核実験禁止条約に仮調印した。
JFKは陸軍特殊部隊(グリーンベレー)を創設し、ベトナムに送り込み、1963年には南ベトナム軍と協力する軍事顧問団を16000人に増強した。こうした部分を観ればJFKはリベラルを装ったタカ派とみることもできる。しかし本書は、1990年代に秘密解除された資料を基礎に、軍部やCIAや顧問団の要求に対して、JFKが一貫して戦闘部隊派遣に反対していたとしている。
「ノーム・チョムスキーは、ケネディの撤退計画はベトナム戦争に勝利して撤退するという条件付き撤退であり、ケネディが勝利なき撤退を考えていたことを立証する公式文書はなく、ジョンソンのベトナム政策は、ケネディのベトナム政策の継承であると断定している」(p673) この見解は従来から流布するベトナム戦争に関するJFKの立ち位置を定めたものだが、この見解はJFKが指令した「国家安全保障行動覚書(NSAM)第263号」と矛盾すると思われる。
D)ベトナムからの撤退を決断,指令
暗殺される6週間前の1963年10月11日に、JFKは「国家安全保障行動覚書263号でベトナムからの撤退を秘密裏に指令した。だがこの指令はJFKが暗殺されたため執行されずに終わった。JFKはベトナムにいる米軍顧問団1000名を1963年末までに、残り全員を1965年末までに撤退させることをすでに決めていた。NYタイムズはそれをすでに報じていた。
本書で著者は、ベトナムからの撤退というJFKの決定は、フルシチョフと取り組もうとしていた平和戦略の一環ととらえている。
1963年11月11日、海兵隊司令官で統合参謀本部メンバーのデイヴィッド・ショウブ将軍にJFKは、「ベトナムから撤退する」と告げ、翌日反戦派のウエインモース上院議員に「私は撤退することを決定したんだ。絶対に」といった。軍統合参謀本部やCIA、軍事顧問団に抵抗すれば、死は現実のものになるだろうとJFKは自覚していた。
1963年11月22日、ダラスで暗殺される。
E)JFKの暗殺
JFKが暗殺された最大の要因は、彼が統合参謀本部、CIAはじめ軍産複合体(「語りえないもの
)の意志に反してベトナムからの撤退を決定、それを実行に移そうとしたことにあると著者は暗示する。その暗示は的を得ていると思われる。本書ではオズワルド犯人説は否定され、暗殺当日の不可解な暗殺者たちの行動、暗殺準備に至る不可解な事実を暴露。CIAの関与を強く暗示している。
(注)JFKの暗殺に関しては、映画「JFK」(オリバーストーン監督)にも詳しく、本書の説と基本的に一致している)
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07GPYN11Y/ref=atv_hm_hom_c_TEdR0r_2_6
JFK暗殺の4日後、後継者ジョンソン大統領はJFKが承認した「国家安全保障行動覚書(NSAM)第263号」に代わる「国家安全保障行動覚書(NSAM)第273号」を新たに承認する。この「覚書」には、ベトナムにおける米軍の戦線拡大、CIAによる秘密工作を可能とする文書が含まれていた。
1964年8月、CIAが関与したトンキン湾事件が起こり、ジョンソンは米軍による北爆を開始する。したがって、ジョンソンのNSAM273号は、JFKの264号とは異なり、軍産複合体に支持され泥沼の戦線を拡大することになる。
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