『ドイツ「緑の党」史 価値保守主義・左派オルタナティブ・協同主義的市民社会』

田中一弘 Oct/2023

 

中田潤著 吉田書店  2023年

著者紹介(同書の奥付より引用)

茨城大学人文社会科学部教授

1965年生まれ。

東京学芸大学教育学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(ヨーロッパ史専攻)修士課程修了、立教大学大学院文学研究科史学専攻博士課程後期課程単位取得退学。ドイツ学術交流会(DAAD)奨学生として留学し、2000年ハンブルク大学にて博士号(Ph.D. 歴史学)取得。ハンブルク・ヘルムート=シュミット大学客員研究員(200708年および201718年)。

専攻はドイツ現代史。

 

目次

序章

第Ⅰ部 市民運動から連邦政党へ

1章 前身としての環境保護市民運動——ニーダーザクセン州における原子力関連施設建設反対 運動

第2章 「緑のリスト・環境保護」の成立——環境保護市民運動からエコロジー政党へ

第3章 抗議政党から綱領政党への転換

第4章 緑の勢力の結集

第5章 連邦政党緑の党の成立

第Ⅱ部 社会構成と地域的拡がり

第6章 左派オルタナティブと各州での緑の運動

第7章 緑の党の社会構成

 

第Ⅲ部 混迷の時期

第8章 党内対立解消の試み

第9章 「原理派」の影響力消失とベルリンの壁崩壊

結びに代えて

あとがき

 

内容紹介

序章

「新しい社会運動」が政党へと転化していく具体的なプロセスを、緑の党に即して明らかにすることが、本書のねらいの第一である。第二に、緑の党への結集には、多様な政治的・思想的潮流が合流して言った事実を指摘することである。その結果、結成から90年までの緑の党の歴史は迷走の歴史となった。

しかし、党内ではある種の共通した政治理念が漠然と存在した。それは「私的資本主義」と「国家社会主義」の間にある——アンチテーゼとして——社会秩序理念であった。筆者の問題関心からするとそれは「協同主義」という社会秩序理念として提起できる。「協同主義」は「自由主義」と二重螺旋構造的に相互に絡まり合いながら、常に拮抗関係にあると、著者は考えている。

以上のような問題意識の下、本書は、緑の党の歴史を、その前史としての地域での環境保護市民運動から始めて、東西ドイツ統一問題への対応の失敗で壊滅的な打撃を受ける1990年までのスパンで解明している。

本書は公刊された資料のみならず、党内文書や党員の書簡などの膨大な未公刊資料を踏査するという方法で研究している。また、当事者への直接の取材(インタヴュー)も行っている。これによって本書はこれまでの緑の党研究史を刷新するものとなっている。それゆえ、緑の党の歴史が生々しく叙述されており、さすが専門研究者という印象を私は持ったが、その方法論は70年代から80年代にかけて一世を風靡した社会史研究の手法を思い起こさせるものだ。

第1章 前身としての環境保護市民運動

本章は、緑の党の前身としてのニーダーザクセン州の環境保護市民運動の成立過程および活動内容が分析されている。この運動は古くからある環境運動とは区別される「新しい社会運動」の一形態である。それは国民の環境に対する意識の変化に直接訴える大衆デモを活動の中心に据えていた。また、私が注目したのは、ある地域で問題が生じて運動が起こされると、様々な地域や運動とのネットワークを形成したということである。日本での社会運動はなかなか横のネットワークづくりを上手くやれていないのでは、との印象を私はもっているが、ドイツのこのような経験は大いに参考になるのではないだろうか。

本章のハイライトは、ゴアレーベンにおける再処理施設および原発廃棄物貯蔵施設反対運動で展開されたトラクターによるデモ行進と、建設計画地での抗議村「ヴェントランド自由共和国」建設の運動である。後者は教会や店舗までも備えたもので、パスポートまで発行していたという。一つの生活基盤を形成していたのだ。また、様々な思想潮流――新左翼から価値保守主義者まで——をもった人々が結集して、交流の空間を形成していた。2000年代の占拠運動を理念的・実践的に上回るものだったように私は感じた。

第2章 「緑のリスト・環境保護」の成立

本章では、1960年代以降の、経済成長至上主義やその本質としての市場原理主義への反発と協同主義への傾倒という長期的な社会変化がありながらも国家の側の対応が鈍かったため、緑の党が成立したことを指摘し、その前身としてのニーダーザクセン州を中心に「緑のリスト・環境保護」(GLU)の成立史を再構成するものである。その過程は様々な地域政党が対立・競合しながら、その一部が合流していくものであった。そのような地域政党が成立した背景には、第1章で明らかにされたように、様々な市民運動が各地で展開されていたにもかかわらず、国の政治を在り方を変えられなかったことから、運動から政党へという流れが生まれたことが指摘されている。GLUは州議会選挙で成功を収めたので、地域政党から全国政党へと拡大する機運が高まってくる。

第3章 抗議政党から綱領政党への転換

GLUは州議会での成功の結果、党員数は大幅に増加したが、そのかなりの部分は左派オルタナティブの若者たちであった。左派オルタナティブとは、様々な左翼的な考えをもったグループを総称するものであり、彼らは単に環境問題にとどまらず、その他の社会的・政治的問題を党活動の対象とすることを主張していた。そのため、環境問題をシングルイシューとして党活動を考えていた市民・エコロジー的傾向の従来の党員の間に、左派オルタナティブとの関係をめぐって中間派市民と保守的市民との間で党活動をめぐる論争が引き起こされ、党分裂の危機を迎えた。この対立はその後の緑の党において一貫して継続する対立でもあった。

第4章 緑の勢力の結集

この章では、それまで互いに競合関係にあった環境政党が、一転して連邦レベルでの単一政党へと方向転換するプロセスを論じている。そのきっかけとなったのが、1976年9月のヨーロッパ議会選挙に向けて、環境保護市民運動全国連盟が、環境勢力の一致団結を呼びかけたことだった。各党は交渉の結果、「その他の政治団体 緑の人々(緑の党)」(SPV)というヨーロッパ議会選挙だけを目的とする暫定的な組織が成立した。選挙結果は議席獲得には至らなかったが、得票率は3.23%を獲得する善戦であり、490万マルクの選挙費用交付金を獲得した。この結果を受けて、暫定的な選挙のための組織としてのSPVを連邦レベルでの単一政党へと再編しようという動きが高まる。

第5章 連邦政党緑の党の成立

ヨーロッパ議会選挙での成功以後、SPVの党員は激増するが、その他い部分は左派オルタナティブの志向と持った人々であった。また、環境保護志向の党員の中でも中間派は積極的に左派オルタナティブとの協力関係をめざし、彼らが党の主導権を握ったため、SPVはその性格を左派オルタナティブ政党へと変えつつあった。しかし、その再編の動きは十分な党内合意の形成以前におこったため、党運営を混乱させたのだった。それは綱領制定過程に反映されている。連邦議会選挙における選挙綱領は合意できず、1980年の連邦議会選挙では1.5%の得票にとどまり、議席は獲得できなかった。

第6章 左派オルタナティブと各州での緑の運動

本章では、左派オルタナティブの具体的な特徴が詳細に述べられている。彼らは1960年代末の学生運動や新左翼運動(議会外反対派)に積極的にかかわってきた人々が中心であった。著者は左派オルタナティブをフェミニズム運動、第三世界解放運動、オルタナティブな文化活動(書店、カフェなど)、教条主義並びに非教条主義的左翼組織などの多様な運動の緩やかなネットワークとして描いている。

本章後半では、ドイツ各地での緑の運動の展開について概観している。緑の運動は地域によってさまざまな形をとっており、それぞれの独自性が発揮されたものであったが、著者はそれを3つの類型——「南部ドイツモデル」、「北部ドイツモデル」、「勢力拮抗型モデル」――に分類している。

第7章 緑の党の社会構成――党員・支持者とはどのような人々だったのか

本章では、緑の党およびその前身のGLUの党員・支持者の社会構成についての分析が行われている。それは二つの観点からの分析である。一つの個人の属性であり、一つは彼らの生みだしていた社会的結合関係である。

分析からわかったことは、個人の属性においては30代以下の若年層が多く、また大卒以上の高学歴者が多いということであり、社会的結合関係においては、生活コミュニティや家族などのほかに、ヴォーンゲマインシャフトというドイツやスイスなどで見られる居住共同体が取り上げられている。後者を著者は「新しい協同意識」という理念によるものとして描いている。それは左派オルタナティブ・カルチャーとの親和性が高かったことを示しているとする。

第8章 党内対立解消の試み——「左派フォーラム」と「出発派」

緑の党は、それまでほとんど接点のなかった諸勢力の寄り合い所帯として成立したがゆえに、長らく党内対立——「原理派」と「現実派」の派閥対立——に苦しんでいた。そのような状況を好転させようと、「左派フォーラム」と「出発派」という二つの中間派の結集があった。しかし、それは新しい二つの派閥ができたにすぎず、党内融和に至るには程遠い状況であった。それにもかかわらず、党の外部ではこのような対立が十分認識されておらず、1987年の連邦議会選挙で過去最高の得票率を獲得した。各派はこの成功を自分たちの主張の成果だとみなし、さらなる混乱を巻き起こすことになる。

第9章 「原理派」の影響力喪失とベルリンの壁崩壊

本章では、1988年後半からドイツ再統一後初の総選挙までの時期の緑の党の再編プロセスが扱われている。この時期「原理派」の影響力が喪失され、また、ドイツ民主共和国の社会主義体制の崩壊という動きがあった。この二つの要因により、党内の路線対立は「社会的エコロジー政党」への道か、それとも「エコロジー的市民政党」へと転換するか、という点にあった。ドイツ再統一に関して、緑の党は慎重論を唱えたが、ナショナリズムに沸き立つドイツにおいて、それに耳を傾けるものは少なく、連邦議会での議席を失うという壊滅的な打撃の受けた。

 

感想

本書はドイツの緑の党の成立史を様々な資料を用いて詳細に描き出しており、また、その過程での人物模様も詳細に描かれている。非常に面白く読めるし、また社会運動や政治運動をどのように展開していくべきか、という点に大きな示唆を与えてくれると私は感じた。

社会運動の追求している課題を実現するためには、何らかの政治的なアクションが必要とされるが、それをどのような形で行うかは、非常に難しい問題である。特に日本においては、自民党内閣が連綿と続いてきたために、社会変革を政治的課題とすることはなかなか困難である。例えば、社会的連帯経済の運動が日本においても取り組まれているが、まだまだ少数派にとどまっている。これはヨーロッパ、とくにフランスやスペインなどに見られるような政治による寄り添いの姿勢——社会的連帯経済の法制化などに象徴される——が、全く見られないことが一つの要因となっている。また、社会運動の側が新たな動きを見せると、官僚組織の側が補助金などを使い、自己の系列化へと吸収し、みずからの天下り先として陣地を形成し、社会運動から力を奪っている。(この点については、榎原均「階級闘争の理論から陣地戦の理論へ」、『季報唯物論研究』157 号所収、が詳しく解明している。この論文は文化知普及協会のHPに掲載されている。https://www.cultural-wisdom.com/_files/ugd/ac6998_3908c03865c144d68f4cd2c527229fe9.pdf

ドイツにおいても反原発運動が同じ問題に直面し、それが市民運動から政党へと流れになり、緑の党の成立へと向かった。しかし、党というものが抱える問題が新たに生じ、それが大いなる混乱を生んできたことを、本書は克明に描き出している。私は読みながら、思わず日本の新左翼の分裂の歴史を思い起こし、ため息が出た。党というものは、レーニン主義的な組織論とは無縁であっても、やはり綱領が象徴するような意志の統一を必要とし、そこで同意できない人々が対立し、ひいては党の分裂につながるということの繰り返しの歴史だったのではないか。そのような対立を克服するためには、意志の統一ではなく、意志の多様性を認め、協同できる部分で共に行動するような組織概念を新たな党概念として打ち出す必要があると、私は考えている。それは統一的な俊樹としての党というよりも、一つのネットワーク、それも個々の課題に応じて様々なつながりを作り出していくようなもの、であるだろう。本書はそのような気付きを私のもたらしてくれた。

もちろん、緑の党の路線対立がすべて不毛だったといいたいわけではない。本書は価値保守主義や左派オルタナティブの理念およびそれらの論争点を詳細に叙述しており、新たな社会を志す場合に非常に考えさせられる論点が提出されている。私は左右の対立を乗り越えて、協同主義あるいは連帯の精神の下で、協同する方向性を考えてみたい。本書はそのような課題を私に与えてくれた。社会運動や政治運動に携わっている人たちにぜひとも読んでもらいたいと思う。

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