循環の経済学

田中正治 2024年5月

 

本書の目的は、持続可能な社会の条件を明らかにすることであり、そのために市場経済を活用しながら、禁止則を設定すると同時に、コモンズの積極的な役割を明らかにすることである。

著者はエントロピー学会の室田武,槌田敦、多辺政弘、丸山真人、鷲田豊明である。

第一章「エントロピーと循環の経済学」では、エントロピーと物質循環に関する基本思想が提示される。第二章「自由則と禁止則の経済学」では、最も際立った主張がなされているので、第二章を中心に紹介とコメントをしたい。

 

) 第一章で室田武は、エントロピー増大過程の中で、地球は物質循環している生命体であるとして、地球の物質循環、生命循環そして人間による経済循環について考察する。

生命活動を含めて、物質の熱的変化や化学変化はエントロピーを増大させる過程であるから、地球には排熱が蓄積される傾向があるが、実際には、排熱は宇宙空間に放出されることによって、生命活動を抑止することはなかった。物質循環が生命活動の存続を保証すると同時に、生命活動が物質活動を活発にしてきたと指摘する。

人間はこの物質循環を人間の都合に合わせて変形した経済循環に依存してきた。この経済循環は、貨幣を媒介に物的な財貨や非物質的なサービスの生産、流通、消費、廃棄の循環過程にあるととらえる。

だが、ここで室田は、人間労働の役割、人間労働を媒介とした自然の加工・物質代謝について触れていない。自然と人間との物質循環過程は、人間の労働を媒介として意識的、合目的的な物質代謝であり、資本主義システムでは、人間による自然の搾取による加工が価値増殖過程としてあらわれ、不断の拡大再生産過程となる。室田はこの人間労働を媒介した自然の搾取、現実の価値増殖過程を解明せず、従って、持続可能で循環型経済について述べるが、資本主義システムを超える方向を志向していない。

 

2)第二章「自由則と禁止則の経済学」では、多辺は資本主義経済と市場経済との区別に基づいて、持続可能な経済を構想する。

まず、ジョージスク=レーゲンのエントロピー理論を、人類「滅びのエントロピー論」として批判する。

人類が拡散した物質はすべて回収することは出来ず、拡散放置した物質は重力の法則と物質保存の法則により海底に沈み、過程は物質の墓場となり、人類は滅びると指摘したのに対して、槌田敦の「物質循環説」を擁護してレーゲンを批判する。

熱エントロピーは、水エントロピーが地球の系外に放出し、物質エントロピーは物質循環が処理するので、地球のエントロピーは処理されていると主張した。レーゲンがいう「重力」とは逆に実際には、水の蒸発、上昇気流、湧水上昇、海流と鳥や動物の活動によって、また人間の経済活動、農林水産業が物質循環を可能にしていると主張した。

この「物質循環説」には説得的で支持したい。

 

3)第二に、多辺は玉野井芳郎の「脱市場社会」説を取り上げる。

玉野井は、生命を含む経済学を「広義の経済学」とする。狭義の経済学=近代経済学は、生産物の廃棄の問題を見ていないとして、廃棄物の処理を担う農業と共同体のエコノミー、非市場経済と共同体のエコノミーを重視する「脱市場社会」を目指す「広義の経済学」を提唱した。

この「脱市場社会」=「狭義の経済学」に対して、槌田は「狭義の経済学」(市場メカニズム)の利用も、物質循環にとって重要でhないかとして玉野井を批判した。

槌田は人間の欲望を肯定して、市場メカニズムは物質循環作動装置であるから、この市場メカニズムを積極的にコントロールすればよいとする。そしてエントロピー増大法則は、「社会のすべての活動に対する禁止則として働く」とした。市場メカニズムに対する禁止則によるコントロールである。

ここから、市場経済と資本主義経済を区別することによって、市場経済のコントロールに方法を明らかにしようとする。

 

4)市場経済と資本主義経済を区別するために、それら各々の出発点の相違について指摘したブローデルの説に依存する。

ブローデルによれば市場経済は、ヨーロッパ中世、近世の市(マーケット)の発展による需要と供給を価格メカニズムで調整する経済であり、貨幣交換によって生産と消費を結ぶネットワークであり、それは地域分散的で局地的市場である。

それに対して資本主義は、近世初期イタリア商人やユダヤ商人による大規模な遠隔貿易による商業活動を含むボーダレスで破壊的でダイナミックシステムであり、銀行や金融機関、特権的関係の中で、商業活動を保護されて発生したものである。従って、市場経済の延長上に資本主義が発生したものではないとブローデルは主張した。

市場経済では企業は与えられた条件の中での日常的な一定の活動に過ぎず、積極的に「資本」を蓄積し、投資し事業を拡大することにそれほど関心を持たない。

他方資本主義は、新たな利潤を求めて蓄積した資本を積極的に投資し、富の拡大に決定的重要性を持つ。

市場経済は、地域規模の日常的な需要と供給を市場を通して充足させる定常系社会である。

他方、資本主義は市場領域で社会的欲求の新たな創出をバネに、無限の拡大をする運動でありから、非定常系の無限拡大を指向するシステムである。肥大化する市場経済あるいは、欲望の肥大化が資本主義の自己拡張運動であるとする。

「肥大化する市場経済あるいは、欲望の肥大化が資本主義の自己拡張運動である」から、、資本主義に対するコントロールーを問題にすべきではないのかという自らの問に対して解を見いだせないまま、多辺はその後、「社会システムとして、物質循環装置である市場メカニズムの積極的なコントロールよって問題を解決すべきだ」という槌田の見解に従う。

 

5)「そうすると問題はおのずと、我々は市場経済に対してどのような設定条件を、どのような制度によって埋め込んでいくのか、という主体的な問いに向かう」(p67)

「我々が問題の対象とする「肥大する市場経済あるいは欲望の肥大化とはまさに佐伯のいう「資本主義の自己拡張運動」そのものであるといえる」(p63)という問題設定から、問題対象を「市場メカニズム」一般に、市場メカニズムの積極的なコントロールに移行している。

「それは自由則に基づく市場経済が、自らの存在基盤を破壊する「滅びの自由」からどのように自由になれるのかという問題なのだ」と問題設定する。自由則が支配する資本主義化した市場経済が環境破壊という自滅への道を歩むのを避けるために、そのような条件を市場外から設定できるのか。

禁止則は市場経済に内在していないので市場の外部から設定しなければならないとする。

その外部とは公的部門と共的部門であるとして、両部門による禁止則の役割に進む。

 

6)まず、公的部門での禁止則としての国家の役割を検討する。

国家に失業問題と景気対策としての有効需要の創出を担わせたケインズ政策は、財政支出を常態化し、その結果自由則による資本主義の拡張運動を刺激し続けるける役割を果たした。その結果、処理能力を超えた排熱と廃棄物の拡大と拡散ーエントロピーを増大させ生命系を攪乱させた

政府は国際間の禁止則である「関税障壁」の引き下げによってエントロピー増大化に拍車をかけ、地球規模での物質循環の攪乱を招いた。生命系への責任主体としての政府の役割は、自由則をその自滅(生命系の破滅)から救うための禁止則の設定であるにも関われず、政府は誤りを犯してきた。

「社会という熱化学機関の運転に関して、行政の役割は「何かすべきことをする」よりも、物質の循環を阻害することを「してはならない」ことを制限する業務に限るほうが良い」を槌田は述べているが田辺はそれを支持する・。

特に補助金は規制行政というより利権独占であり、官僚体制を肥大化させてきた。適正技術は地域条件に合わせて自由競争(自由則)を伸ばせばよい、知言うのが槌田に「市場メカニズムの肯定論」の根拠であった。しかしそれは、自己膨張運動をつづける「市場メカニズム」の放任主義ではない。人間の創造力への信頼、知恵の自由競争の持つ創造性への信頼なのである。

しかし、その創造性の自由に無限の信頼を置いているわけではない。生命系の破壊になること(市場の失敗)を絶えずチェックしなければならない。そのチェック(禁止則の設定)こそが自由則(市場経済)への枠組みなのである。そして、その公的禁止則の設定によって、市場はその条件内での最適解を自ら見出そうとする。そのダイナミックさに、市場メカニズムの柔軟性と創造性を見出す。

ではどのような禁止則を設定すべきなのかと問い、法的手段による禁止.規制と経済的手段による抑制を挙げていく。

 

7)次に、市場(私)か政府(公)かの議論のなかで見失っていたのは、実はコモンズ(共)であるとしてコモンズの考察に入る。

へーデル・ヘンダーソンの「産業社会の生産的構造」を取り上げている。

まず、①「母なる自然」。森、河川、大地等自然の層。(GNPの隠れた外部コスト)

②物々交換、地域の構造、無償の家事、ボランティア、シェア、相互扶助、自然農業等。社会的協同対抗経済。

③防衛、国家・地方行政、道路保全、上下水道、学校、橋、地下鉄、市行政等GNP(公的)セクタ

➃私的セクターの生産、雇用、消費、透視、貯蓄等GNP(私的)セクタ。

そして①②は非貨幣的生産部門、③➃は貨幣的生産部門に分類される。(p122)

ここから、自然の層を破壊しながら自己増殖する資本主義を抑え込み、ブローデルのいう市場経済(地域分散的低情景の経済の可能性を持った市場経済)まで引き戻すために」どうすればよいのかと問題を立て、「公的禁止則の外装だけでなく,共的禁止則(コモンズのルール)の内装を含む地域自治が必要」と主張する。

資本主義以前に形成されていた市場経済が、資本主義の登場によって吸収・再編された現在の資本主義経済からブローデルのいう市場経済(地域分散的低情景の経済の可能性を持った市場経済)まで「引きもどす」ことは原理的に可能なのだろうか?

「コモンズ(共的世界)が私と公との対抗関係として存在しているということは、実は私と公との自滅を防いでいる。共は私の自己増殖を抑え、公を自治へと引き戻す役割を果たすからである」

「こうして、エントロピー増大装置と化した資本主義に対し、低エントロピー維持装置を内包するコモンズとしての「地域」にもう一度光を当てる必要性が浮かびあがってきた」(p129)

 

8)そうして結論部に入っていく。

「市場経済をコモンズの経済と共生させうるものとするためには、モノとサービスの地域内循環とその潤滑油である貨幣(信用)の地域内循環を高めていく方向を求めざるを得ない」(p131)

「自由則を担う私と禁止則を外装する公と内装する共とが、保管・対抗する関係を持つことによって、物質循環の攪乱を防ぎ、更新性を持った定常系の経済を可能にする」(p139)

これらの禁止則の外装と内装によって、定常系の経済に導けるかどうかは、基本的に次のような条件が必要であると思われる」として、

①生命系の物質循環を豊かにする経済活動を担う農林漁業を地場産業としていかに大切に育てていくかである。国際分業や自由貿易に基本的に任せてはいけない。

②国際間の禁止則としての貿易管理が必要であり、農林漁業を中心とした国内の産業関連をいかに地場産業として地域の中に埋め戻していくかが重要であると主張する。

確かに農林漁業を地域の地場産業として育てていくかは、定常系の地域循環社会を生成する場合きわめて重要であるが、「社会的協同対抗経済」はそれだけではない。消費協同組合、ワーカーズコレクティヴ、NPO,コミュニティービジネス、ボランティア活動、相互扶助、物々交換、フリーマッケット、等のアソシエーションの無数のネットワークもまた重要ではないか。

結語として「必ずしも脱市場のみではない。定常系を持った分散的市場経済の再構築と、それに結びつき支える非市場領域の活性化による地域循環経済の構想へと向かうべきではないだろうか」

 

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